『愛するということ』における愛の原型──母性と父性という二つの柱
エーリッヒ・フロムの『愛するということ』は、「愛は感情ではなく技術である」という考えを軸に、人がどのように成熟した関係を築くのかを探る本です。その中でフロムは、愛の原型として“母性的な愛”と“父性的な愛”という二つの力を取り上げます。母性の愛とは、存在そのものを肯定するような無条件の受容であり、相手がどんな状態であっても「あなたはそのままでいい」と包み込む温かさを持ちます。一方で父性の愛は、責任や倫理を教え、秩序や行動の指針を与える「条件付きの愛」とされます。努力や成長を評価しながら、相手が自立することを後押しする愛です。
フロムは、この二つがどちらか一方に偏りすぎると、人は健全な愛の感覚を身につけにくくなると説きます。過剰な母性は相手を依存させ、過度な父性は相手を萎縮させる。成熟した愛は、この両者のバランスによって育まれていくのです。

母性と父性が欠けたときに生まれる“心理的マゾヒズム”
フロムが描くマゾヒズムは、性的な意味ではなく、心理的な服従の傾向を指します。自分で決断することに不安を覚え、責任を持つよりも、誰かに委ねてしまいたいという感覚が強くなる状態です。強い存在に寄りかかったり、自分の価値を低く見積もってしまったりするのは、幼少期に「無条件で肯定される感覚」または「安心して責任を学ぶ環境」が欠けていた場合に起こりやすいとフロムは説明します。
母性の受容が不十分だと、人は自己肯定感の基礎を得られず、不安を抱えたまま大人になります。その不安を埋めるために「誰かに従うことで安心する」という方向に傾きやすくなります。また、父性の愛が十分に学べなかった場合、自由と責任の扱い方が身につかず、「自分で選ぶのが怖い」という心理が強くなり、結果的に服従へと向かうのです。フロムは、このようにマゾヒズムを“未成熟な結びつき”の一つとして位置づけています。
過剰な父性がもたらす“心理的サディズム”という支配の構造
サディズムについても、フロムは性的嗜好とは無関係の「心理的な支配欲」として論じます。相手を導く、助けるという名目でありながら実際には相手の自由を奪い、支配することで自分の価値を確認しようとする態度です。幼少期に過度に厳しい父性を経験すると、相手を管理することでしか自分の安心を保てなくなるとフロムは指摘します。
父性の愛は本来、規律と責任を教えながらも、最終的には相手を自立へ導くものです。しかしそれが未成熟な形で表れると、「従わせること」や「支配すること」が目的になってしまう。母性の受容も不足していると、自分の内側に孤独や劣等感を抱え込み、それを他者への支配によってごまかそうとします。こうして、表面上は強く見えるサディストも、実は深い不安を埋めるために支配という形を取っているのです。
支配と服従は“別物”ではなく、同じ未成熟な愛のかたち
フロムは、心理的サディズムとマゾヒズムは対極のように見えて、実は同じ構造の裏表だと語ります。どちらも孤独や不安に耐える力が弱く、自分を保つために他者との関係に依存してしまうという点で共通しているからです。服従することで安心を得ようとするか、支配することで安心を得ようとするかの違いにすぎず、本質は「自由に向き合えない未成熟な関係」にあります。
母性の愛と父性の愛がバランスよく育まれた場合、人は相手を尊重しながらも自分自身の主体性を保つことができます。フロムが説く成熟した愛とは、まさにその両立のことであり、支配でも服従でもない第三の関係性です。
成熟した愛は“自立した者同士が結びつく力”
フロムの『愛するということ』は、恋愛論というより“生き方の本”に近い内容です。母性的な受容と父性的な導きを合わせ持つことで、人ははじめて自立し、他者とも健全な関係を築けるようになる。心理的サディズムとマゾヒズムは、そのどちらかが欠けたときに生まれる未成熟な形であり、愛とはまったく違う結びつきだとフロムは強調します。
成熟した愛とは、相手を支配することでも、相手にすべてを委ねることでもありません。二人がそれぞれの自由と責任を持ち、そのうえで互いを深く理解し、尊重し合うこと。その姿勢が、フロムが示した“愛の技術”の中心にあります。
























