「変態ですね」で終わらせるのが、じつは一番浅い理解──フェチを文化として読み直す

フェチは「変態」じゃなくて、世界の見え方のクセ

「フェチ」と聞くと、まず思い浮かぶのは性的な“こだわり”かもしれません。
ヒールフェチ、メガネフェチ、女装・男装フェチ……。日常会話だとだいたい「ちょっとエッチで特殊な趣味」として消費されがちです。

でも、もともとの「フェティッシュ(fetish)」という言葉は、もっと広い意味を持っていました。
アフリカやヨーロッパで「力が宿るモノ」を指した宗教人類学の言葉であり、マルクスが『資本論』で語った「商品の物神性(フェティシズム)」でもあり、フロイトが精神分析で性の固着を説明するときにも持ち出した概念です。

つまり、「フェチ」は単に“おかしな性癖”ではなく、

モノや身体の一部に、過剰な意味や力がまとわりついてしまう現象

と大きく捉えたほうが、本来のスケールに近いのです。
この視点に立つと、フェチは「変態趣味」ではなく、世界の見え方のクセ、その人なりの「文化のレンズ」として見えてきます。

モノに「人格」が宿るとき──文化はフェティッシュだらけ

丸山圭三郎は「文化のフェティシズム」という言い方をしました。
私たちはモノや言葉にラベルを貼り、そこに意味を詰め込みすぎる。その結果、単なるモノが「かけがえのない何か」に変わってしまう。これは宗教だけではなく、日常のあちこちで起きています。

たとえば、お気に入りのブランドのバッグ。
素材として見れば布と金具ですが、そこに「憧れ」「成功の証」「自分らしさ」といった物語をまとわせることで、ただのバッグ以上のものになります。推しアイドルのアクスタや、同人グッズだってそうです。アクリル板のはずが、「この子そのもの」「つねに一緒にいたい存在」として扱われる。

マルクスが言った「商品のフェティシズム」は、モノが人間関係を代行し、人よりも“偉い”ものとして振る舞い始める状態を指していました。
でも、それは何も特殊な現象ではなく、今のポップカルチャーのほとんどが、フェティッシュなモノたちのネットワークの上に成り立っていると考えることもできます。

フェチを文化論として見るとき、

  • モノが人をどう動かしているか
  • モノにどんな感情や物語が乗せられているか

を丁寧に追いかけることが重要になります。そこには、欲望だけでなく、階級、ジェンダー、共同体意識など、いろんなレイヤーがしっかり埋まっています。

身体とモノの「結び目」としてのフェチ

性的フェチの話も、文化論とまったく別物ではありません。
むしろ、身体とモノが強く結びつく「フェチ」は、文化がどんなふうに身体をしつけ、飾り、時に解放しているのかを示す、わかりやすい実験場です。

たとえば女装・男装フェチや変身願望。
そこでは衣服やメイク、ウィッグ、ストッキング、ブラジャー、スーツなど、具体的な「モノ」が、身体のイメージをまるごと作り替える装置として働きます。
その瞬間、布や化粧品はただの道具ではなく、「別の性別・別の人格になれる鍵」として扱われる。これも立派なフェティッシュ化です。

ここで大事なのは、「興奮する対象が変わっている」のではなく、

身体のどの部分に、どんな意味や役割を集中させているか

という視点です。
首筋フェチ、喉仏フェチ、脚フェチ、ボディピアスフェチ……。どれも、「その人にとって世界がどこから立ち上がるのか」を示す、小さな文化的選択です。
そこには生育環境、見てきたメディア、触れてきた他者、社会の規範と逸脱のラインなどが、細かく折り重なっています。

フェチを「個人の性癖」で終わらせず、「身体とモノを結ぶ文化的な結び目」として見ると、羞恥や罪悪感だけでなく、創造性や自己表現としての側面も見えてきます。

「フェチ文化」を語るための、いくつかの視点

じゃあ、フェチを文化論として語るとき、どんなポイントを押さえておくといいのでしょうか。
キーワードを少しだけ挙げると、

  • 権力とまなざし
    誰の欲望が基準になっているのか。そのフェティッシュな視線は、どこまでが合意で、どこからが搾取や暴力になってしまうのか。
  • 消費とアイデンティティ
    ブランド、キャラ、アイテムとしてのフェチが、消費行動とどう結びついているか。フェチの実践が「自分らしさ」を作るのか、それともマーケットに“作られている自分”なのか。
  • 共同体と語り
    同じフェチを持つ人たちが集まることで、どんなストーリーやルールが作られ、どう安全と快楽のバランスを取っているのか。

こうした視点をもってフェチを見ると、「変態ですね」で終わらせるのが、じつは一番浅い理解だということがわかります。

フェチは、私たちの世界の中で、

モノと身体と欲望が、ちょっと過剰に結びついてしまった場所

であり、その「過剰さ」ゆえに文化のしくみを可視化してくれるレンズでもあります。
だからこそ、フェチを真面目に語ることは、性だけでなく、消費社会、ジェンダー、宗教、政治、あらゆる「文化」の話につながっていきます。

関連記事